Ⅲ-1 「地図で見る宇部地域の発展」原始・古代~近世(生徒)

時代区分(日本)

2020.7.11最終更新 クリックすると拡大します。
2020.7.11最終更新 クリックすると拡大します。

1 原始・古代~中世

①宇部村の原風景を標高図から見る(海岸線の変化)

宇部中心部の「地理院タイル」標高図に管理者が地名・施設を記入した画像(画面上をクリックすると拡大できます)。

 

 標高図をみると、現在の宇部市街地の地形が概観できます。また、中世までのおよその海岸線が推定でき、「島」が島であったことも確認できます。

 標高図は、近世・近現代の堤防・道路・埋め立て・造成工事などにより本来の地形に変化がみられます。

 

 現在、宇部市の中心市街地となっている「沖ノ山」は、かつて瀬戸内海に浮かぶ島もしくは砂州でした。

 沖ノ山から前漢時代(紀元前206年~紀元後8年)の「半両銭」(9枚)と「五銖銭」(97枚)が弥生時代中期末(前1世紀~1世紀)のかめから出土しています(出土したのは1740年(江戸時代))。弥生時代にあたる中国の古銭がなぜ「沖ノ山」から出土したのかはナゾとなっています。(平成19年度山口大学埋蔵文化財資料館企画展 第24回「やまぐち古代の七不思議」「不思議4 沖ノ山出土古銭」クリック・外部リンク

 

 梶返天満宮(上記標高図の東側)由緒によれば、「延喜元年(註:901年)菅原道真公が九州大宰府社に流される道中、三田尻港(註:防府市)を出てまもなく海上大暴風雨にあい梶返の辻地蔵岬に避難して風のやむのを待った その場所が、当時着巌森と呼び現在の社殿地である。

当時はこの地を梶返辻地蔵見崎船ヶ崎などと呼んでいた。この付近の人は梶返辻地蔵岬を船出され三年後に九州大宰府で死去された道真公の徳を慕って社を建て、着巌社といい後に着巌天満宮ともいった この地が梶返と呼ばれるのは道真公の乗っておられた船の舵をかえしたことからだといわれている。

 当時この付近は海岸であり入海であった」(以下の画像参照)とあります。

 

 これは平安時代の「道真着岸伝説」で、実証されていません。平安時代の沖ノ山の形成状況はわかりませんが、瀬戸内海から梶返に小型の船が着岸していたと推察できます。(杉谷豊彦「梶返の歴史(其の1)」『宇部地方史研究第17号』1989)

 「梶返(かじがえし)」は船の舵を返した(船の向きを変えたの意か)ことに由来する地名と考えられ、近くの「沼」という地名は海と陸地の境の湿地帯であったと推察できます。

 山口県の瀬戸内海側に点在する天満宮の位置を確認することで10世紀の海岸線を推定できるかもしれません。

 

 宇部の地名の由来の一説に、「海辺」(ウミベ)の読みが転訛し「ウベ」となったという説があります (黒木甫「宇部という地名」『宇部地方史研究第8号』1979)。「宇部」の歴史は、古来、海や海上交通と密接に連関していますので有力な説といえるのではないでしょうか。 

社殿正面の「梶返天満宮の由来」。管理者撮影2画像(クリックすると拡大します。)
社殿正面の「梶返天満宮の由来」。管理者撮影2画像(クリックすると拡大します。)
「菅公御手洗(かんこう・みたらい)の池」。社殿境内から西へ50m下ったところにある道真公の御手洗(手や口を浄めた)の池です。
「菅公御手洗(かんこう・みたらい)の池」。社殿境内から西へ50m下ったところにある道真公の御手洗(手や口を浄めた)の池です。

 以下の『慶長国絵図控図長門国』(江戸時代初期の地図)では、沖ノ山砂州が完成し、砂州の内側は、西は砂州の先端にあたる居能(いのう)から入り、東の梶返付近に至る入海として描かれています。このことから、 江戸時代初期には、東の宇部岬から西の居能まで東西約4㎞、南北約1㎞の砂州(沖ノ山砂丘)が延び、沖ノ山砂州の外側は瀬戸内海であり、内側は居能から海に繋がる入海になっていたことがわかります。

 江戸時代前期には入海の開作(干拓)や埋積が進みました。江戸時代中頃になると、現在、宇部市中心部を二分している真締川(まじめがわ)は、宗麟寺(そうりんじ)前を南下した後、沖ノ山砂丘に阻まれて樋ノ口(山口大学医学部付近)で西に向かい、鵜の島開作の堤防の南側を通り、助田(すけだ)の栄川(さかえがわ)から海に流れていました。入海と真締川はもともとは、沖ノ山砂州先端の居能から海に出ていましたが、居能の海が開作(江ノ内開作)されて流路を阻まれたため、居能の手前の助田に栄川を開削して流路を付け替え、水を瀬戸内海に流しました。しかし、流域は、排水の悪い状態が続きました。

 そこで、江戸時代後期(領主福原房純(ふくばらふさずみ)時代1797~98年(寛政9~10))に、家臣と村人は、沖ノ山砂丘中心部を南北に570間(約1㎞)開削し(樋ノ口~川口)、真締川の流路を付け替えて瀬戸内海に直流させました(新川疎水)。この結果、周辺の恩田、梶返、鵜ノ島、浜などの湿田は「美田」となりました。(『都市景観100選』「真締川周辺地区」。ウィキペディア「真締川」(クリック))。 

 

 現在の市街地が入海であったことを示す地名もたくさん残っています。

 居能から鍋倉(なべくら)山の横を入ると入海を挟んで北に「浜町」、南の沖ノ山砂丘側に「南浜」があり、「浜通り」もあります。

 入海を東に進むと渡邊祐策邸のある「島」があり、文字通り島か、半島であったことに由来する地名です。上記の標高図(緑色の地図)では、「島」から南東方向に、湾内に串のように突き出た場所が確認できますが、これが「小串(こぐし)」(山口大学医学部周辺)という地名の由来と考えられます。

  「蛭子(えびす)公園」(えびすは漁業の神)、「宮地町。西の宮」(えびす神社に由来する地名。えびす宮総本社は西宮神社(西宮市))も豊漁を祈る「えびす神」にちなむ地名です。

 

 以下は管理者の推論です。

 現在の松江山宗麟寺の前身である松江山普済寺(ずんごうざんふさいじ)は、海の安全を守る観音菩薩信仰と連関した寺院とみられます。   

 「松江」は揚子江下流域の太湖(南湖)の支流にある湖で、観音菩薩の聖地であり、「普済寺」は浙江省(せっこうしょう)舟山(しゅうざん)群島にある中国観音霊場の中心地の普陀山を代表する禅宗寺院と同名です(ただし、舟山諸島にあった寺が「普済禅寺(普済寺)」と改称されたのは1699年のことで、舟山諸島の普済寺との比較では、寺名は宇部の方が早くなっています。

 観音の原型は、海難事故防止のために称えられたところにあり、松江山普済寺の創建時の性格は海の安全を守ることにあったと考えられます。すなわち、この付近は海上交通や交易の要地であったと考えられ、普済寺は海難防止の祈願のために創建された寺と解釈できます。

 

宗麟寺本堂。「補陀海」の扁額が掲げられている。「補陀落」はインド南端にあるとされる観音菩薩が降り立つという伝説上の山。このお堂の裏が「竜心庭」。福原越後の菩提寺で墓所がある(命日の11月12日のみ墓参できる)。管理者撮影2画像。
宗麟寺本堂。「補陀海」の扁額が掲げられている。「補陀落」はインド南端にあるとされる観音菩薩が降り立つという伝説上の山。このお堂の裏が「竜心庭」。福原越後の菩提寺で墓所がある(命日の11月12日のみ墓参できる)。管理者撮影2画像。
山門の脇にある宗麟寺庭園の案内板。クリックすると拡大。
山門の脇にある宗麟寺庭園の案内板。クリックすると拡大。

管理者作成。右上の[ ]をクリックすると拡大します。

 「交易」は「互いに品物を交換して商いをすること」、「貿易」は「国際間の財物の交換」なので(『広辞苑』)、貿易は交易の中に含まれます。(交易〉貿易)。

②宇部地域の原始・古代~中世の主な遺跡・文化財

2019.6.28 更新

【原始・古代】

《旧石器・縄文》

〇常盤池遺跡・長桝遺跡(旧石器~縄文文化)。

長桝遺跡に関する『宇部地方史研究』掲載の論文

山本一朗「縄文時代の宇部と長桝遺跡」(第13号1985)

宮本公胤「長桝遺跡発掘調査(一・二次概報)」(第14号1986)

村田裕一「長桝遺跡第四次発掘調査に参加して」(第17号1989)

〇月崎遺跡(縄文文化前期~晩期)。 

次の画像上をクリックすると拡大し、画像右上の + を押すとさらに拡大し、説明版を読むことができます(スマホは2本の指で拡大してください)。

「月崎縄文遺跡」(小野忠煕書)宇部市東岐波。管理者撮影3画像
「月崎縄文遺跡」(小野忠煕書)宇部市東岐波。管理者撮影3画像
月崎遺跡説明版と日ノ山(古代の烽(とぶひ)推定地)
月崎遺跡説明版と日ノ山(古代の烽(とぶひ)推定地)
月崎遺跡から見た瀬戸内海。縄文人は鳥を見ましたが、現代人は山口宇部空港へ向かうジェット機が飛ぶのを見ます。
月崎遺跡から見た瀬戸内海。縄文人は鳥を見ましたが、現代人は山口宇部空港へ向かうジェット機が飛ぶのを見ます。

宇部市HP「旧石器~縄文時代」(クリック)(2021年2月10日更新の宇部市HP・「文化・イベント」。以下同じ)(クリック)

《弥生・古墳》 

〇北迫(きたさこ)遺跡(弥生貝塚・農耕遺跡・高地性集落)。

〇沖ノ山出土古銭(弥生時代中期末・東アジアとの関連)。

〇松崎古墳(古墳文化・三角縁神獣鏡出土・ヤマト王権と関係する豪族(厚東川河口の松崎は瀬戸内海交通の要地であったとみられる)の古墳)。

下の宇部市HPをクリックし、さらに「松崎古墳出土品」をクリックすると仿製三角縁神獣鏡(ぼうせいさんかくぶちしんじゅうきょう)の画像を閲覧できます(「仿製」とは中国鏡を模倣して日本で製作された質の落ちる銅鏡です)。

〇波雁が浜(はかりがはま)遺跡(古墳文化中期~奈良時代・製塩遺跡)。

〇花ケ池窯跡(古墳時代後期から操業の須恵器の登り窯跡)

〇若宮古墳(古墳文化後期・横穴式石室(1~5号墳)。波雁が浜遺跡と関連する有力者の古墳)。

宇部市HP「弥生~古墳時代」(クリック)

 

《飛鳥・奈良・平安時代》 

〇日ノ山(古代の防衛施設・烽{とぶひ・のろし}比定地。飛鳥~奈良時代。~近世)。

〇梶返天満宮(菅原道真着岸伝説・伝平安時代)。

 

【中世】

《鎌倉・室町時代》

〇下請川南(しもうけがわみなみ)遺跡・中世の石鍋生産地。生産過程の未製品出土。

〇松江山普済寺(ずんごうざんふさいじ・現在の宗麟寺)庭園。県内現存最古の庭園(龍心庭・南北朝時代)。

〇東隆寺(とうりゅうじ)・長門国安国寺。長門国守護職厚東氏本拠地の棚井(たない)に所在。安国寺は、奈良時代に聖武天皇が各国に建立を命じた国分寺に倣って、南北朝時代、足利尊氏・直義兄弟が各国に1か所の創建を計画した(同時に利生塔も計画されたが長門国利生塔の所在地は不明)。南北朝時代に大内氏と覇権を争った厚東氏が、棚井地区と厚東川を挟んだ対岸の霜降山に築城した戦時の山城が霜降城(しもふりじょう)である。

〇『持世寺(じせいじ)文書』。次の宇部市HPに掲載されている『持世寺文書』には「宇部郷内田地事」とあり、「宇部」という地名の初見史料です。

宇部市HP「持世寺文書」(クリック)

宇部市HP「平安~室町時代」(1)(クリック)

 宇部市HP「平安~室町時代」(2)(クリック)

 宇部市HP「平安~室町時代」(3)(クリック)

ArcGIS Esri Japanの画像に、管理主が遺跡・文化財のある場所にピンを置き、名称を記載。拡大可。
ArcGIS Esri Japanの画像に、管理主が遺跡・文化財のある場所にピンを置き、名称を記載。拡大可。

宇部市HP「文化財マップ」

次のボタンをクリックすると、2021年2月10日更新の宇部市公式ウェブサイトの「文化・イベント」にアップされた、校区ごとの「文化財マップ」が閲覧できます。宇部の文化財が網羅されています。

③古代の烽(とぶひ)比定地・近世の狼煙(のろし)場の一部

管理者作成。右上の[ ]をクリックすると拡大し、対馬から高安城までの主要な烽(とぶひ)推定地を見ることができます。

 

《古代の県内・西日本の烽と防衛施設》

 白村江の戦い(663)に敗れた天智天皇(称制661~・即位前。即位668)は、対馬・壱岐・筑紫国等に烽(とぶひ)・防人(さきもり)を設置し、筑紫に大堤(水城・みずき)を築き(664)、朝鮮式山城の長門城(ながとのき・城は「き」と読む)・大野城・椽(き。基肄・きい)城(665)、高安城・屋島城・金田城(かなたのき)(667)を築いた(『日本書紀』「天智天皇」)。朝鮮式山城は8世紀の初めに廃城となり、烽・防人も9世紀に廃止された。

 古代の県内の烽の遺跡として、火ノ山(下関市椋野)、火ノ山(山陽小野田市津布田)、日ノ山(宇部市東岐波)、火ノ山(山口市陶)などが比定されている。

 7世紀後半の支配体制とされる大宰・総領制に関わる周芳惣領(周防・長門・安芸を支配)に関連する防衛施設が石城山神籠石(いわきさんこうごいし・朝鮮式山城)と推定する説がある(大宰府(大宰)と大野城(逃げ込み籠城の防衛施設)と同じ関係。向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』)。

 烽は、屋島城(讃岐国)を経て高安城(大和国・河内国との境)まで伝えられたとされており、7世紀後半は、唐・新羅軍の来襲に備えた緊張感のある時代だった。(地図の右上の[ ]をクリックして拡大したあと、西日本地域を見ると『日本書紀』に記載されている古代の烽(比定地)や朝鮮式山城の一部の位置が確認できる。)

 

《近世の萩藩狼煙場の一部》

 江戸時代萩藩の狼煙場は県内に多数整備された。ピンで図示しているのはその一部である。

 紫のピンは、江戸時代の防長中西部瀬戸内海沿岸の狼煙場の受け継ぎ(『防長風土注進案』)。

 オレンジ色のピンは、三田尻から佐々並の萩往還の狼煙場の受け継ぎを推定。

 朱色のピンは、(竜王山(紫色のピン))→荒滝山(あらたきやま)→権現山の受け継ぎ(『防長風土注進案』)。刈屋(山陽小野田市の港。竜王山の近く)→舟木→荒滝→大田・絵堂に至る舟木街道に沿った受け継ぎと推定。

 青色のピンは、雨乞山→天子山(比定)→経塚山→(権現山(朱色のピン))の受け継ぎ。

萩城下と赤間関(あかまがせき・下関)を結ぶ赤間関街道中道筋との関連を推定。

 茶色のピンは、山陽道に沿った受け継ぎ。

 緑色のピンは、日ノ峰山(ひのみねさん)(山陽小野田市山野井)、火の山(山口市陶)、黒崎(宇部市西岐波)で受け継ぎの記載がなく推定もできない狼煙場。

 黄色のピンと線は、幕末、小郡宰判が外国船襲来を報じる信号に関連する場所(高野義祐『長州諸隊』)。

(典拠:『防長風土注進案』。山口高等学校歴史教室編『周防長門遺跡遺物発見地名表』1928年)

 

特定の色のピンだけを見るときは、他のレイヤのチェック(赤字のチェック)をはずしてください。

 

《古代・近世の県内の政治・軍事の中心地》

 青い星・・[古代]石城山(いわきさん)神籠石(こうごいし)(7世紀後半の大宰・総領制に関連する周芳(周防)総領の朝鮮式山城)。長門国府(長府)。周防国府(防府)。

 [近世]毛利藩萩城。三田尻御茶屋(萩往還終着地。参勤交代の出港地)。

 

山陽小野田市・竜王山公園。烽(とぶひ)説明版。管理者撮影。拡大可。
山陽小野田市・竜王山公園。烽(とぶひ)説明版。管理者撮影。拡大可。

 古代の烽の場所は比定地(県内の所在地の史料なし。全国で烽の遺構の発掘なし)。

上記の説明版5行目の「西は津布田(つぶた)の火ノ山より受け、東は宇部岬に渡した、とある」は、江戸時代萩藩の狼煙場(のろしば)を記した『防長風土注進案』(天保12年(1841))の記述であり、古代の史料ではない。

 

 説明版6行目の「約8~12キロメートル」は江戸時代狼煙場間の実態としての距離である。

 古代の烽制の規定では、原則は40里である(『令義解』「軍防令」)。大宝令・養老令は5尺(大尺・1尺36cm)を1歩、300歩を1里(540m)とした(のち6尺(小尺・30cm)を1歩、60歩を1町、6町を1里(650m)とするようになった)(『国史大辞典』「里」)。すなわち40里(540m×40)は21.6㎞となる(視認距離の限界は20㎞とされているので40里は烽の距離の限界である)。

 たとえば、下関市椋野(むくの)火ノ山~山陽小野田市津布田火ノ山(推定約17㎞)、津布田火ノ山~宇部市東岐波日ノ山(推定約22㎞)、東岐波日ノ山~山口市陶(すえ)火ノ山(推定約11㎞)となっている。ただし、津布田火ノ山と東岐波日ノ山の中間に宇部市末信の観音岳があってお互いに見えない可能性があり、視認距離からも限界であり、竜王山ないし宇部岬を経由したと推定できる。

 

④中世の石鍋生産・・下請川南(しもうけがわみなみ)遺跡

 「石鍋三つで牛一頭」といわれるほどの高級品の石鍋の未製品が宇部市の下請川南遺跡から出土している。このことは私たちに何を伝えているのだろうか。

 

 滑石製石鍋は、西日本を中心とする古代末から中世にかけての遺跡において出土する特徴的な煮炊容器である。中世の集落遺跡として有名な草戸千軒町遺跡(くさどせんげんちょう・広島県福山市・備後国)で2,171点が出土している。

 石鍋の生産地としては、規模の大きい長崎県西彼杵(にしそのぎ)半島一帯の遺跡が知られ、国指定史跡のホゲット石鍋製作所跡(長崎県西海市)の発掘調査が実施されている。

 1983年、宇部市下請川南遺跡の発掘調査で岩盤から石鍋を切り出した跡が明らかになり、この石鍋の生産・流通過程の位置づけが課題となっている。

 生産地による石鍋の素材特性の違いを分析することで、東北から沖縄までの消費遺跡の石鍋産地を特定し、中世の流通経路、流通機構や経済圏などを解明するデータを提供できる。

 下請川南遺跡から出土したのはすべて未製品であり、完成した石鍋製品はない。下請川南遺跡の石鍋は室町時代のころと推定される。

 草戸千軒町遺跡出土の試料を分析すると、1試料に直閃石が認められ、この試料だけ下請川南遺跡の試料に類似している。このことは少量ながら下請川南遺跡で生産された石鍋が備後地域までもたらされた可能性を示している。

 瀬戸内の流通網が13世紀後半から14世紀はじめに活発化したことは東播系須恵器や常滑焼などの磁器からもいえる。各地で石鍋の需要が増大した時期に、西彼杵半島のみならず宇部近辺の製品も瀬戸内航路を経由して流通したことを草戸千軒町遺跡出土資料の分析結果から想定することが可能となった。 (典拠:今岡照喜・中村徹也・早坂康隆・鈴木康之「滑石製石鍋原材料の比較研究―長崎県ホゲット遺跡と山口県下請川南遺跡」2010

 

【参考】《草戸千軒町》広島県福山市(備後国)を流れる芦田川河口の河川敷にあった港町・門前市場町の性格を持つ中世の地方小都市。埋積により当時の町のおもかげをとどめたまま消滅した。栄えていた町の生活のようすを具体的に伝える国内外の多数の出土物が発掘されており、「東洋のポンペイ」・「日本のポンペイ」ともよばれる。福山市の「ふくやま草戸千軒ミュージアム」(広島県立歴史博物館)に当時の街並みが再現されている。

 

上のボタンをクリックすると完成品の石鍋の画像を見ることができます。


《東アジアから考える視点を持とう》

管理者作成。画像右上の[ ]をクリックすると拡大可(緑色のピンはサビエルのリスボンからの渡航経路です)。特定の色のピンを見る時は、他の色のレイヤのチェックをはずしてください。

 赤ピンは古代・中世の東アジアの都です(中国の三国時代の魏(卑弥呼の時代・3世紀・弥生時代後期)・朝鮮の三国時代(高句麗・百済・新羅)~明・李氏朝鮮・日本の戦国時代16世紀までの都)。

 青ピンは古代・中世(一部近世)の主要地点です(白村江の戦い・7世紀~戦国時代16世紀まで。ただし、鄭成功(ていせいこう・国姓爺(こくせんや))は江戸時代(近世)前期・17世紀の人物)。

 紫ピンは「三島(さんとう)の倭寇」とよばれた倭寇(交易不調の場合掠奪行為をする武装した私貿易商人)の根拠地です(日本の南北朝時代・14世紀前後)。

 緑ピンはフランシスコ・ザビエルの生誕地、活動地、寄港地、上陸地、布教地等の位置です。ザビエルは16世紀中ごろの日本の交易、政治、経済の中心地を訪問しています。(2019.6.13更新)

《フランシスコ・ザビエル布教の旅》

ザビエル出発・リスボン→モザンビーク→ゴア→マラッカ→アンボン→マラッカ→上川(じょうせん)島→鹿児島→平戸→山口→堺→京都→山口→平戸→山口→府内→ゴア→上川島(病死)

画面右上の[ ]をクリックし、画面を世界に広げ、拡大して見てください。ピンをクリックすると簡単な説明が読めます。

《質問》原始・古代~中世の遺跡・文化財から関心のあるものを選んで調べ、さらに同時代の日本の歴史、世界の歴史との関連を調べ、考え、話し合ってみよう。

2 近世

 安土・桃山時代と江戸時代を「近世」といいます。「安土」は織田信長が近江に築いた居城安土城に依ります。「桃山」は豊臣秀吉が京都伏見に築いた居城伏見城(桃山城)に依ります(伏見城のある場所が桃の名所で桃山といいました)。すなわち、「安土・桃山時代」とは織田信長・豊臣秀吉(と子の秀頼)が政権を握っていた時代(1573年室町幕府滅亡~1600年関ヶ原の戦い(または1603年江戸幕府成立)までの間)のことです。

 

①江戸時代初頭の宇部付近  『慶長国絵図控図(けいちょう・くにえず・ひかえず)・長門国』

 慶長10年(1605)ころ毛利藩から幕府に提出された慶長国絵図周防国・長門国の2枚の正図の控図のうち「長門国」。宇部市所蔵。

『慶長国絵図控図』・「長門国」のうち厚東(ことう)郡拡大部分図

宇部市・学びの森くすのき所蔵。宇部市教育委員会から画像使用許可。

管理者が地名等を画像に加筆した。 画面上をクリックすると拡大します。

 宇部市所蔵『慶長国絵図控図・長門国』の「厚東郡内」部分の拡大図です。厚東郡内(紫色の太線内)の村名と石高、厚東川水系・有帆川(ありほがわ)水系(水色)や山陽道(赤色)、砂浜(白色)などが描かれています。

 江戸時代初頭(慶長10年(1605)ころ)の宇部付近の景観を知ることができる貴重な地図です(国指定重要文化財)。

 宇部岬から居能(いのお)に白砂青松の砂州(沖ノ山)が延び、沖ノ山の内側は入海となっています。

 梶返は入海の奥に当たります。

 厚東川は廣瀬村から海に入り、隣村の際波村(山陽本線宇部駅周辺)も海に面していることがわかります。

 この地図により、後述の「②近世 厚東川周辺の開作」で説明する開作以前の江戸時代初頭の宇部付近の風景を知ることができます。 

《一部村名の読みと解説》 小串・こぐし。藤曲・ふじまがり。際波・きわなみ。車地・くるまじ。吉部・きべ。万倉・まぐら。有帆・ありほ。千崎・ちざき。高泊・たかとまり。藤河内・ふじかわち。宇津木・うつぎ(棯小野・うつぎおの)。四ヶ小野・しかおの(鹿小野)。

「四ヶ小野」村は、小野村、下ノ小野村(下小野・しもおの)、市ノ小野村(一ノ小野村・市小野・いちおの)、上ノ小野村(上小野・かみおの)、宇内(うない)村の「公称」(『防長風土注進案』)。

 臼木(うすき)、両川(りょうかわ)は、「小野ノ内」(四ヶ小野村の中)にあり、臼木は小野村、両川は下ノ小野村の「小名」(『防長風土注進案』)で、現在は、厚東川ダム建設でできた小野湖に水没している。

(四ヶ小野村の中の小野村の「小名」には、市之坂(一之坂)、櫟原(いちいばら)、臼木、華香(はなが・花香)、大山(おおやま)、腰割(こしわり(輿割り)。現在の美保)がある。『防長風土注進案』)

 有帆村、千崎村、高泊村(安政4年(1775)に東西に分割)の各一字をとって「高千帆」という。明治22年(1889)の町村制の施行により、高畑村、西高泊村、東高泊村、千崎村、有帆村が合併して高千帆村となった(昭和13年(1938)町制)。

 江戸時代の須恵村は、安永4年に東須恵村と西須恵村に分割された。町村制施行により東須恵村(厚東郡内図の須恵村の東半分)が厚南村(現宇部市)に入り、西須恵村(厚東郡内図の須恵村の西半分)が単独で須恵村(現山陽小野田市)となった。須恵村は、大正9年(1920)、小野田町となり、昭和15年(1940)、小野田町と高千帆町が合併して小野田市となった。

 厚東郡内図に描かれた村の中では、有帆・千崎・高泊の三村と須恵村の西半分が現在の山陽小野田市であり、他の村はすべて宇部市(船木村、万倉村、今富村、吉部村は昭和30年に楠町となり、平成16年に宇部市と合併した)である。

 なお、長門国の厚東郡内図に描かれていない周防国吉敷郡東岐波村・西岐波村は町村制で単独村制となり、それぞれ昭和18年(1943)と昭和29年(1954)に宇部市と合併した。

 

『慶長国絵図控図・長門国』「厚東郡」の村の現在地

管理者作成。画像右上の[ ]をクリックすると拡大できます。

 

 この地図は、前記の『慶長国絵図控図・長門国』「厚東郡内」に記載されている村の現在地に赤ピンを置いたものです。

 青ピンは、『慶長国絵図控図・長門国』に記載がないものの、下の表の『防長風土注進案』(天保12年・1841。開作等による耕地拡大あり)に記載がある村の位置を示しています。ただし、「西岐波」と「東岐波」は周防国吉敷郡でしたので「厚東郡内」には記載がありませんが、前記のように合併して宇部市となっていますのでピンを置いています。

 紫ピンは、『慶長国絵図控図・長門国』に記載されている小野村(四ヶ小野村)の「小名」の臼木、両川です。

 

 ピンは、主としてその村の範囲内にある小・中学校、高校、大学に置きました。学校がない村は、小野村を除き、村名と同じ地名がマップに記載されている場所にピンを置いています。

 

 厚東郡内の旧山陽道は、国道2号線とほぼ一致(並行)しています。

 

 黄色の星は、本山岬(瀬戸内海航路の目印)、宇部岬(同前)、居能(いのう・犬尾。沖ノ山砂州の先端。沖ノ山砂州は前掲の厚東郡内図にあるように宇部岬側から犬の尾のようにのびていた。真締川の流れと入海は居能から海に出ていた)、助田・栄川(すけだ・さかえがわ。居能付近の開作(干拓)により流路が閉ざされたため、居能の近くの助田で沖ノ山砂州に栄川を開削して真締川の水を海に流した)、竹ノ小島(たけのこじま。江戸時代の妻崎新開作の干拓により陸続きとなった)の地理的位置を示します。

 

②沖ノ山砂州の形成について

 次のボタンをクリックすると宇部市の中学校社会科副読本「ふるさと宇部」にリンクできます。「ふるさと宇部」の「歴史的分野」に「宇部の原始・古代(中世・近世)はどのような時代だろうか」という項目があり、その中に、中山美由紀作画で沖ノ山の形成過程が分かりやすく図解してあります。

 「原始・古代」の図解では、沖ノ山は遠浅の海として描かれています。

 「中世」の図解では、「このころ、厚東川や真締川が運んできた土砂が、潮の流れによって細長い砂州「沖ノ山」をつくりました」と説明があります。

 「近世」では、作画の他に、「●開作された土地を確認しよう!」という、宇部地域の開作の詳細な地図が掲載され、現在の地形となった歴史的過程が理解できます。

 

《参考》中学校社会科副読本「ふるさと宇部」(宇部市教育委員会)

 中学校の「地理的分野」・「歴史的分野」・「公民的分野」毎に、宇部の地域学習が系統的かつ主題的に学習できるように工夫されています。

 

沖ノ山の形成に関する管理者の仮説

 楮原京子(山口大学教育学部准教授(地理学))の見解(2018.4)を参考にし、海面上昇や沖ノ山の形成、形成のスピードについて管理者が以下にまとめてみました。

 

 日本列島周辺では、縄文時代の海面の上昇(縄文海進)以後、弥生時代に海退(海面が下降)し、平安時代に再度、海面が上昇しました。ただ、縄文海進が100m以上海面が上昇したのと比較すると、弥生時代(海退)から平安時代(海進)の海水準変動は数メートルの範囲と考えられています。

平安時代の海水面の上昇により、上の『慶長国絵図控図』に残されているように、海岸線は現在よりもかなり内陸側にあったと考えられます。その後、海面がわずかに低下して海岸線が後退したことや人間活動の活発化に伴った土砂供給量の増加を背景に、三角州や砂州が成長し、海跡湖は埋積され、現在のような平野が形成されていきます。これは、日本の沿岸部でみられる一般的な地形形成で言われていることです。

 

 沖ノ山砂州の形成は、『慶長国絵図控図』に描かれている形状が正しいとするなら、砂州を形成した砂供給源は、厚東川や真締川だけでなく、東方にもあると考えられます。

 『控図』の沖ノ山砂州の形状は東側で太く、西に行くに従って細くなっています。この形状から、宇部の沖合を東から西に向かう沿岸流で運ばれた漂砂が堆積した砂州地形と解釈できるのです。つまり、椹野川や阿知須~宇部東部の岩石海岸から土砂が供給されたり、瀬戸内海に注がれる土砂ということであれば佐波川からの土砂も含んでいるかもしれません。

 このように、宇部よりも東で流出した土砂も、沖ノ山砂州の形成に関わっていると考えられるのです。

 

 沖ノ山砂州形成のスピードに関しては、土砂量、沿岸流の強さ、海底地形など、影響する要因がたくさんあるので具体的な数字を示すことはできません。

 ただ、宇部沖は、深くなく穏やかですし、中国山地は人の手が入っていた山で土砂供給量も豊富なので、沖ノ山くらいの大きさの砂州であれば、数百年もあれば形成が可能ではないかと考えられます。

 

 楮原先生の見解をもとに、管理者は、「沖ノ山古銭出土」と「道真伝説」を以下のように推定します。

 沖ノ山から弥生時代の中国の古銭が甕に詰められ、江戸時代に出土してナゾになっている。弥生時代、弥生海退(数メートル以内)により海面が低下し、沖ノ山の一部が島のようになっていたと考えられる。この「沖ノ山島」にだれかが何らかの理由で、青銅器製作の原料としての銅銭を甕に入れて埋めたのではなかろうか。

 平安時代は、海進(数メートル以内)による海面上昇で沖ノ山が海に沈み、「道真伝説」にあるように、梶返に瀬戸内海から直接着岸していたと考える。

 

《沖ノ山の形成の仮説》

(縄文時代)縄文海進。沖ノ山は海の底だった。

(弥生時代)弥生海退により、沖ノ山は海面上に現れ島となる。沖ノ山出土古銭を入れた壺が埋められる。

(平安時代)平安海進により沖ノ山は海中に沈む。道真の船が瀬戸内海から梶返に着岸する。

(鎌倉・室町時代)岬から居能にかけて沖ノ山砂州が成長し、入海ができ、居能の北側から入海に入る。入海の埋積が進む。

(江戸時代初期)『慶長国絵図控図・長門国』にみられるように、白砂青松の沖ノ山砂州が形成される。

(江戸時代)居能の北側が開作(干拓)されて入海が閉ざされたため、助田に栄川を掘削して川の水を海に流す。湿地帯の改善のため、沖ノ山砂州を掘削して新川を造成し、川を南に直流させて海に流す。

 

 これは管理者の仮説です。今後の研究を待ちたいと思います。

 


《テーマ》「二ノ丸様の薄幸」―萩藩初代藩主毛利秀就の四ヶ小野(しかおの)村誕生説―

テーマをなぜ設定したのか

 毛利輝元(てるもと)側室の二ノ丸様(1572年(元亀3年)~1604年(慶長9年))は、萩藩初代藩主毛利秀就(ひでなり)を四ヶ小野村阿武瀬(しかおのむら・あぶせ)で出産したという有力な伝承がある。秀就が阿武瀬で生まれた可能性は高いが、阿武瀬なのか広島で生まれたかは学問上は解決されていない。ここでは、秀就の出生地がどこであるかを課題とするのではなく、二ノ丸様の人生を考えることを課題とする。すなわち、生母の二ノ丸様の人生を探究することにより、戦国時代の武家の女性の人格がどのように扱われ、人生がどのようなものであったのかを考えることである。

 

(『防長風土注進案』では「四ヶ小野」(鹿小野)村は、小野村、下ノ小野(しものおの。下小野・しもおの)村、市ノ小野(いちのおの・一ノ小野。市小野・いちおの)村、上ノ小野(かみのおの。上小野・かみおの)村、宇内(うない)村の「公称」と書かれています。江戸初期は「鹿小野」と記載されています。

2022.11.8更新

 

布引敏雄「毛利輝元側室二ノ丸様の薄幸」

(『大阪明浄女子短期大学紀要』第9号 平成7年(1995)3月10日発行)

 布引論文の秀就(ひでなり)誕生に関する要旨は以下のとおりである。

 毛利輝元は、重臣・児玉三郎右衛門元良(もとよし)の娘(二ノ丸様)に恋をした。そこで児玉元良は急ぎ周防野上(徳山)の領主杉小次郎(小二郎)元宣(もとのぶ)に嫁がせた。小早川隆景(たかかげ)配下として杉小二郎が九州に出陣している留守に、輝元側近の佐世石見守元嘉(させ・いわみのかみ・もとよし)は、杉山土佐守元澄に二ノ丸様の略取誘拐を命じた(「石見守」「土佐守」は朝廷からではなく、輝元が授けた受領名)。杉山土佐は毛利系水軍(脇氏・相嶋氏ら)を使い二ノ丸様を安芸に連れ去った(1587年秋)。夫の杉小二郎は殺害されたとする説(1589年、小次郎は輝元に恨みをもったので、小早川隆景が徳山沖の大島の船隠で小次郎を暗殺したという話(『古老物語』『徳山市史』))もある。

 輝元の側室となった二ノ丸様(居住した広島城二ノ丸にちなむ)は、側室にすることすら反対していた小早川隆景や正室(南之御方)の嫉妬に苦しめられ、居所を転々とし、長門国厚東郡四ヶ小野に移った。二ノ丸様は文禄四年(1595)10月18日に輝元の子の毛利秀就(萩藩初代藩主)を広島で出産したとされている(『毛利三代実録』)。しかし、二の丸様は、輝元や小早川隆景の干渉を避けるため、四ヶ小野村の下ノ小野村大字阿武瀬の財満新右衛門就久の御土居屋敷で秀就を生んだとする伝承(『防長風土注進案』)も無視できず、広島か四ヶ小野村か、いずれとも結論できない。

2022.10.17 更新

 

 論文の本文と注に、史料、系図、先行研究、参考文献等が記載されており問題の所在と研究の手掛かりを把握できます。しかし、二ノ丸様略取誘拐事件は萩藩にとっては不名誉な事実で、歴史に残したくないことであり、記録に残されていない事実が多く隠されていると考えます。

 2022.10.14更新

 

「山口に美人は生まれない?」

【二ノ丸様の「薄幸」と山口の「姫山伝説」】

 布引論文の「おわりに」に「姫山伝説」が記されている。

 二ノ丸様は、輝元との間に一女二男をもうけ、子供たちはみな栄達を遂げて、その人生は幸福そのものだったとも言える。なぜ、布引論文はあえて「薄幸」という言葉を選んだのだろうか。

 「その理由は、二ノ丸様の人生が多くの人から「可哀相に」と捉えられたからである。その証拠は、二ノ丸様の死後、彼女の人生に関連していくつかの「伝説」が生まれたからだ。たとえば、彼女が山口の地で死にのぞんで、女というものが自分のような不幸な人生を送らないようにと、自分の墓の見えるかぎりの地には美人が生まれないように願ったと言われている。そのため、山口の町には美人が少ないのだそうだ。

 こうした「伝説」が事実であるかどうかの検討はさておき、山口の民衆がこれを今に伝えてきたということは真実である。すなわち、民衆たちの健全な感覚で見れば、二ノ丸様の人生は「薄幸」そのものであったのだ」

と布引は書いている。

 

《以下は管理者が書いた》

 二ノ丸様は山口の地で慶長9年(1604)に亡くなり、菩提寺は周慶寺(山口市古熊)である。墓所は大正7年(1918年)に香山公園の毛利家墓所の裏に移座された。

 姫山伝説はいくつかあるが、基本的なストーリーは、殿様が美女をみそめてわがものにしようとしたが美女が従わず、姫山の頂上の古井戸に放り込んで蛇責めにして苦しませて殺したというもの。美女は、美しく生まれたばかりにこのような苦しみを受けたので、今後、姫山から見える範囲の土地では美人に生まれないよう願った。その後、山口には美人が生まれないことになったという「伝説」である。 

 

姫山(山口市平井)。平井村と黒川村の地域が「平」と「川」を一字ずつとり平川村となる(1889)。山口市と合併し(1944)、山口市平川地区となる。山口大学はこの地区の吉田にある。管理者撮影2画像。
姫山(山口市平井)。平井村と黒川村の地域が「平」と「川」を一字ずつとり平川村となる(1889)。山口市と合併し(1944)、山口市平川地区となる。山口大学はこの地区の吉田にある。管理者撮影2画像。
寺内正毅生誕地から見た姫山(山口市平井)。吉敷郡平井村の農家宇多田家に生まれた正毅は、8歳の時に宮野村の藩士寺内家の養子となる。元帥陸軍大将・伯爵。朝鮮総督・内閣総理大臣歴任。
寺内正毅生誕地から見た姫山(山口市平井)。吉敷郡平井村の農家宇多田家に生まれた正毅は、8歳の時に宮野村の藩士寺内家の養子となる。元帥陸軍大将・伯爵。朝鮮総督・内閣総理大臣歴任。

平山智昭(小野郷土史懇話会会員)の秀就の四ヶ小野誕生説

 平山智昭(小野郷土史懇話会会員)を会長とする「毛利秀就誕生の地保存会」が宇部市小野に結成された記事(『宇部日報』2012年5月8日)。

 秀就公の誕生が、通説(文禄四年(1595))より4年早い天正19年(1591)で、四ヶ小野村阿武瀬の領主、財満就久(ざいまなりひさ)の屋敷であったこと。二の丸(周姫・かねひめ)樣懐妊時、輝元が財満就久に二ノ丸様をかくまうよう命じ、出生後の処置を就久が小早川隆景に相談したことが記された財満家文書を発見した。 

 平山は、財満家の記録を根拠に、小野村で誕生した秀就を広島城に連れて行ったのが文禄四年頃としている。

 

《二ノ丸様の本名は「周姫(かねひめ)」か》

 平山は二ノ丸様の本名を「周姫」としている。この典拠は、下関市の財満家に保管されていた、平山が『財満家文書』と書いている資料の一部を抜粋し、平山が書き写したり、コピーした資料である(この『財満家文書』とされた資料は現在は行方が失われている)。「二の丸様の実家は児玉元良で、芸州賀茂郡竹仁(だけに)村周辺の領主であった。幼名は周姫(かねひめ)といい、兼ねてより許婚(いいなづけ)であった周防野上(のがみ・のちの「徳山」)の杉元宣と結婚する。」(平山智昭・田村悌夫『戦国歴史秘話 長州藩初代藩主 毛利秀就公 誕生の真実追究 総括編』2021年、ふるさと紀行編集部、134頁)と書いている。

参考意見:布引敏雄は二ノ丸様の本名が「周姫」であること、「周」を「かね」と読むことに疑問を呈している。平山が二ノ丸様の本名を「周」とする根拠は、二ノ丸様の法名(ほうみょう)が「快楽院殿(けらくいんでん)栄誉(えいよ)周慶大姉(しゅうけいだいし)」であることによるという。(管理者註:浄土宗の法名は院号(院殿号)(二ノ丸様の例では「快楽院殿」)・誉号(同じく「栄誉」)・戒名(同じく「周慶」)・位号(同じく「大姉」)で構成される)。法名のうち戒名の部分は俗名(本名)の一字を取って付けることが多いので、戒名の「周慶」の「周」を本名と考え、「周姫」ではないかと推測した。しかし、布引は、二ノ丸様が「周」であったとする根拠となる文書はないとする。また、「周」を「かね」と読む根拠となるふりがなの史料も見当たらないと布引は指摘している。

(管理者註:二ノ丸様の死後の墓石(以下に画像)は「栄誉周慶大姉」となっている。最高位の院殿号を付けられたのはしばらく後のことであり、生前の二ノ丸様は毛利家で冷遇されていたことを示している。)

2022.10.28更新

 

財満就久御土居屋敷跡(宇部市下小野阿武瀬・現藤本邸)。毛利輝元の側室二の丸様はこの屋敷にかくまわれ、屋敷内の西御屋敷で萩藩初代藩主毛利秀就を出産したという有力な説がある(『寺社由来』・『防長風土注進案』)。管理者撮影2画像。
財満就久御土居屋敷跡(宇部市下小野阿武瀬・現藤本邸)。毛利輝元の側室二の丸様はこの屋敷にかくまわれ、屋敷内の西御屋敷で萩藩初代藩主毛利秀就を出産したという有力な説がある(『寺社由来』・『防長風土注進案』)。管理者撮影2画像。
御土居屋敷裏山の穴蔵(隠れ穴)。二の丸様親子を刺客から守るための隠れ穴で、万一の時は親子をこの隠れ穴に入れ、入口に蓋をして隠そうとしたといわれる。
御土居屋敷裏山の穴蔵(隠れ穴)。二の丸様親子を刺客から守るための隠れ穴で、万一の時は親子をこの隠れ穴に入れ、入口に蓋をして隠そうとしたといわれる。

毛利輝元の二ノ丸様略取誘拐と毛利秀就の誕生

二ノ丸様略取誘拐推定経路と戦国時代の関連交通路

管理者作成。2022.12.13更新。右上の[]をクリックすると拡大します。

 地図の二ノ丸様関連地は史料にもとづいて作成していますが、地図上の推定経路は、管理者が史料にある地名を参考に二ノ丸様の移動経路を推測して作成したものであり、史実にもとづくものではありません。二ノ丸様の移動経路は戦国時代の交通路の一端を示していると考えます。

2022.12.13更新

 

 

二ノ丸様略取誘拐経路と戦国時代の関連交通路

  「杉山覚書」「相嶋作右衛門覚書」(前掲布引論文所収)に書かれた二ノ丸様略取誘拐 (天正15(1587)・論文では1586年秋) 推定ルート。二ノ丸様が通ったとみられる戦国時代後期の山口県・広島県の陸上・海上交通路の推定であるが、当時の交通路の一端を示していると考える。推定経路・推測図参照。

 

〇杉山土佐、相嶋仁右衛門・作右衛門兄弟による二ノ丸様略取誘拐

Ⅰ《地図の「二ノ丸様略取誘拐推定経路1」野上(徳山)から高嶺城まで》赤色線のルート

 二ノ丸様住居(杉小二郎・野上(のがみ(徳山)領主邸。周南文化会館横・徳山動物園南園第2駐車場(以下に画像))で略取誘拐→相嶋(おおしま・大島。太華山のある半島。水軍「下松舟」相嶋氏の関連地・推定)→(舟)→「もつれの嶋」(六連島(むつれじま)・脇与右衛門に関する『閥閲録』に記載)→小倉・毛利輝元御陣(1泊)→(御船)→伊崎(いさき。下関市)→須恵(山陽小野田市刈屋(かりや)または宇部市妻崎(つまざき))→藤曲(ふじまがり)→【この後の経路は推定、厚東川水系を御船で四ヶ小野まで→(陸路)→(十文字)→綾木(あやぎ)→肥中(ひじゅう)街道→吉敷】→高嶺城(こうのみねじょう。二ノ丸様叔父の内藤新右衛門元輔殿在所。山口市)

Ⅱ《地図の「二ノ丸様略取誘拐推定経路2」高嶺城から新庄まで》桃色線のルート

 高嶺城→(【切畑(きりはた)道(小鯖~切畑)】)→たん(旦・防府市台道{1889年台道村と切畑村が合併して大道村[吉敷郡→1955年防府市に編入]となる})・大海(おおみ)浦(山口市秋穂(あいお))→(御座船)→厳島→地之むかい御前(じのむかいごぜん。地御前(じごぜん))→【津和野街道。宮内→友田→津田→生山(なまやま)峠】→山代宇佐→新庄(吉川(きっかわ)氏本拠)上本地(かみほんじ)児玉市之介春種(二ノ丸様叔父)殿)

 

二ノ丸様と毛利輝元

Ⅲ《地図の二ノ丸様推定往来1」新庄(吉川氏本拠地)―郡山城(こおりやまじょう。吉田。毛利輝元本拠地)―沼田新高山城(ぬた・にいたかやまじょう。三原市)小早川隆景の本拠地黄色線のルート

 新庄の児玉市之助邸→二ノ丸様、お忍びで月1回郡山城(こおりやまじょう)の輝元のもとへ通う{二ノ丸様御座所・井上但馬殿丸・児玉三郎右衛門元兼(二ノ丸様兄)殿丸}→沼田(ぬた)新高山(にいたかやま)御引取{小早川隆景御意。飯田藤右衛門元親(二ノ丸様兄)殿}→二ノ丸様、新庄の児玉市之助殿へ戻る。

Ⅳ《地図の二ノ丸様推定往来2」郡山城―広島城緑色線のルート

 新庄児玉市之助殿→{広島城築城始まる(1589年)}→二ノ丸様、輝元の御座所の佐東福島の番屋へ→輝元御座所東森坊の番屋へ→佐東山本に二ノ丸様御座所、新庄から児玉市之助移住。輝元は築城中の広島と郡山城(吉田)を往来。(1591年輝元広島城入城。1992年豊臣秀吉見学)

 

二ノ丸様の秀就出産

〇四ヶ小野説と広島説

・秀就四ヶ小野村阿武瀬出生説

《地図の「二ノ丸様推定往来3」佐東から四ヶ小野まで》紫色線のルート。(相嶋作右衛門がお供)

 史料に「御船」でとあるので、二ノ丸様は海路で阿武瀬に移ったとみられるがルートは不明です。紫色の線は管理者の推測です。その後、⓵二ノ丸様は四ヶ小野阿武瀬で秀就出産(『横瀬八幡宮』伝承(『防長風土注進案』「舟木宰判 小野村」。『風土注進案』には他にも誕生の記載がある)。②二ノ丸様は秀就出産の前後に四ヶ小野に隠棲したが、阿武瀬で秀就は出産していない。⓵②のどちらが事実かは確定できないが、⓵の伝承があり、阿武瀬誕生説は有力な説である。平山智昭は、『財満家文書』(喪失)などを検討し、秀就の阿武瀬出生を天正19年(1591)、広島城に入ったのが文禄4年(1595)という説を提示している(平山・田村前掲書)。

Ⅵ《地図の「二ノ丸様推定往来4」四ヶ小野から広島まで》薄紫色のルート。

 史料に山代三瀬川、山代宇佐の地名が出ているので陸路で広島に向ったとみられる。三瀬川と宇佐の間に、二ノ丸様の乳母の久芳の局の滞在地(1601年斬首。墓所・深福寺(現深龍寺))があったことが関連しているのかもしれない(管理者推測)。広島の児玉元経(二ノ丸様弟)宅に着いた。広島城では二ノ丸に住む。

・秀就広島出生説

 輝元は秀吉に仕えており、広島と京・大坂を往来していた。二の丸様はお忍びで輝元のもとへ上京・上坂した。懐妊{文禄3(1594)か}した二ノ丸様は、毛利家の公式記録では文禄四年(1595年)十月十八日に、「公(輝元)の男子芸州佐伯郡広島に生まる。名を松寿丸(秀就)と称す、母は児玉三郎右衛門元良女、元良女二之丸と称す」(『毛利三代実録』)と書かれている。しかし、広島出産の根拠となる史料は「杉山壱岐守覚書」しかない。

 

〇二ノ丸様はなぜ阿武瀬で秀就を出産したのか。

・なぜ、広島で出産できなかったのか。

 輝元は、正室(いとこの南之御方)に子が生まれなかったため、跡継ぎにするためにすでに秀元を養子にしていた。このため、輝元は、二ノ丸様に男子が誕生したら、「海川えもすて候か、ふみころし候ハん」と指図した(『佐世宗孚書案』)とか、「生まれた子供が男なら殺せ」と命じた(『戦死武功書出』)と書かれている。懐妊した二ノ丸様は子を守るために、干渉する者が多くて危険な広島を離れ、阿武瀬に隠棲して出産したと推察される。秀元は輝元に替わり、朝鮮出兵や関ケ原の戦いに参陣した。

なぜ、阿武瀬なのか。

 天正16(1588年)年7月、児玉小四郎景唯(児玉元良三男、二ノ丸様の兄)は、四ヶ小野で二〇〇四石五斗の地を与えられた(註:前掲『慶長国絵図控図長門国』(1605年頃)では四ヶ小野村の石高は二〇七六石五斗なのでほぼ一致している)。二ノ丸様は兄の所領である安全な四ヶ小野村(小野村・下ノ小野村・上ノ小野村・市(一)ノ小野村・宇内村の公称)に隠棲したと考えられる。しかし、秀就を生んだのは小野村(下ノ小野村)阿武瀬の財満(新右衛門就久・ざいましんえもんなりひさ)の御土居屋敷とされている(『横瀬八幡宮』伝承)。四ヶ小野における児玉氏と財満氏の所領の位置関係は明確でない。財満氏は児玉氏の一所衆(毛利氏の軍事組織の寄親・一所衆。指揮官の寄親を中心に一所衆が軍事動員の部隊編成を行う。)であった可能性も考えられる。近世中期の『古老物語』は秀就の綾木{あやぎ。交通の要衝。四ヶ小野と同じ大田(おおだ)川水系(宇部市小野の両川地区で厚東川と合流)にあり、四ヶ小野の上流の北側に位置する村}御出生を書いている。(布引論文)

 史料や伝承から、四ヶ小野、綾木(長門国)、嘉川(周防国)一帯は、二ノ丸様の父方の児玉一族、母方の久芳賢直(二ノ丸様の曽祖父)の領地(嘉川)となっており、二ノ丸様が隠棲、出産する環境が整っていたと考える{児玉氏を寄親とし、久芳氏・財満氏が一所衆を編成か(『閥閲録』巻145[久芳庄右衛門家]、『財満新三郎久張譜録』(毛利家文庫)からの推測(布引論文)}。児玉氏の相伝の領地(東広島市福富町下竹仁(しもだけに))と久芳氏の相伝の領地(東広島市福富町久芳(くば))は隣接しており、両氏は婚姻を通して親戚であり、協力関係にあったと推察される。毛利氏は大内氏・陶氏滅亡後に防長2カ国を領有した。これに伴い、児玉氏・久芳氏も安芸国から防長2か国に領地を持つことになり、二ノ丸様とその子秀就を支援したと考える。

 なお、財満氏は、安芸国の大内氏の拠点だった西条盆地の領主で、西条盆地は児玉氏や久芳氏の領地に近かった。1551年、大内義隆が陶晴賢に攻められ滅亡した後、同年、就久の祖父財満越前守入道宗因隆久は晴賢に従わず槌山城(つちやまじょう。東広島市八本松町吉川。地理的位置は前図参照)に籠城したが、晴賢の命を受けた毛利隆元に攻められ、落城・戦死した。その後、入道宗因隆久の子の忠久(就久の父)は毛利元就に仕え、四ヶ小野村の城番となり、就久が相続した(『財満新三郎久張譜録』(毛利家文庫))。

  2022.11.8更新

  

 二ノ丸様の名前がわからないほど女性の地位は低かった。

 二ノ丸様は毛利輝元により略取誘拐され側室(当初は側室より下の扱いだったようだ)となった。戦国時代の武家の女性は非人間的な扱いを受けていたと考える。

 二ノ丸様は、父(児玉元良)の娘、母(波根泰次の娘)の娘、杉小次郎の妻(正室)、毛利輝元の側室、毛利秀就・たけ姫・就隆(なりたか)の母と書かれる。本名はわからない。広島城の二ノ丸に住んでいたので、歴史上は「二ノ丸様(二の丸様・二之丸様)」とよぶ。歴史(文書)はこの時代の女性を人間扱いしていない。二ノ丸様は、父(児玉元良)・夫(杉小次郎正室。毛利輝元側室)・息子(毛利秀就・就隆)という男性の「女(むすめ・娘)」・「妻」・「母」としてしか歴史に名前を残さない。二ノ丸様という地位の高かった女性ですら、戦国時代の武家社会の女性の地位は低かったことがわかる。こうした男尊女卑の社会は、現代の女性と比較して、どのような相違点があるだろうか。

 輝元の正室には子がなかったため、輝元は秀元を養子にした。しかし、輝元と二ノ丸様の間に秀就(1595年~)・たけ姫(1599年~)・就隆(1602年~)の3人の子が生まれた。輝元は小早川隆景の進言もあり(隆景の考え方が変化したのだろう)、秀就を跡継ぎにし、秀就は初代萩藩主になった。弟の就隆は初代徳山藩主(当初下松であったが徳山に移動)、妹のたけ姫は吉川広正(広家の子。岩国領2代領主。正式に岩国藩となったのは1868年)の正室となった。秀就が輝元の跡を継いだため養子の秀元は初代長府(下関市長府)藩主となった。

 二ノ丸様の3人の子どもたちはそれぞれ高い地位を得たが、二ノ丸様の人生は、輝元から逃れるために12歳で結婚(『古老物語』。1604年に32歳で死去しているので1572年生まれ)、15歳で輝元の略取、正室(南之御方)の嫉妬、小早川隆景の干渉などで苦しめらた。特に輝元が、二ノ丸様に恋をして略取誘拐したにもかかわず、二ノ丸様に男子が生まれたら殺せと命じたとする史料もあり、二ノ丸様は不信と恐怖に陥ったと推察される。

 二ノ丸様の実家の児玉一族は毛利家家臣として高い地位を得たが、二ノ丸様は、住所を転々とし、正室のいる輝元とは同居もできず、輝元のもとに通って仕え、山口で32歳の生涯を終えた。二ノ丸様は、己を殺して生きなければならなかったと推測される「薄幸」な人生を送ったのではないだろうか。それは「姫山伝説」として語り継がれている。

2022.10.17更新

 

日本の家族制度の変遷と女性の地位

 

《古代》女性のところに男性が通う妻問婚(つまどいこん)が一般的な婚姻形態だった。中国の男尊女卑観を継承した律令や儒教道徳が採用され、男性中心の社会がつくられつつあった。しかし、家族生活では原始社会以来の母系的家族形態が残り、夫婦別居による女性の独立性は維持され、財産相続権も認められ、荘園領主となった女性も少なくなかった。しかし、生産から離れた貴族社会の女性の地位は、女性の労働力の価値の高かった民衆と比較すると弱い立場にあった。

《中世》武家社会では、武士の生活は家本位となり、個人の自由な生き方を規制するようになった。妻問婚はすたれ、嫁入り婚が一般化し、夫婦同居が原則となり、結婚に関する夫の家の発言力が強まった。武力を中心とする武士の家では女性の労働力は低下し、女性は家の重圧のもとに夫に対する立場を弱めていった。とはいえ、女性の社会的地位は相当に高く、武家の慣習としての分割相続においても女性に相続権が認められていた。御成敗式目(貞永式目)にも、女子は親の財産分与、「妻・妾」は夫の財産分与を受けていた条文がある。しかし、妻問婚から嫁入り婚への移行は、古代のような恋愛による自由な男女の結びつきを少なくした。(妻は正室と継室(後妻)があり、妾は側室や側女と呼んだ。)

《近世》江戸時代になると身分秩序が固定したので、女性の地位はかつてないほど下落した。武家社会では単独相続制が強化され、家長の権威は絶対的なものとなり、家族は家長のもとに隷従した。男尊女卑がはなはだしく、嫁入り婚が確立し、結婚は家存続のための手段となった。一夫多妻が公認され、子を生ませるために妾も是認された。妻の姦通は死罪であり、離婚(離縁)の権利は夫にのみ与えられた(三行半(みくだりはん))。舅(しゅうと)・姑(しゅうとめ)が嫁を追い出す習慣もあった。女性が夫の反対を押し切って離婚を望む場合は、鎌倉の東慶寺などの「駆込寺(かけこみでら)」で足かけ3年間修業しなければならなかった。

 貝原益軒の児童教育書である『和俗童子訓(わぞくどうじくん)』には、女子に教えることとして「父の家にありては父にしたがひ、夫の家にゆきては夫にしたがひ、夫死しては子にしたがふを三従といふ」(「三従の教え」)という一方的な忍従が女性の道徳として説かれた。

 しかし、禄や財産のない中流以下の一般の町人や農民の社会では、家の重圧は強くなく、女性の労働力が男性と比べて低くなかったことから、女性の地位は武家社会よりも高かった。農漁村には若者組が存在し、村の男女の自由交際を認め、仲間の婚姻を媒介した。主婦は食物の管理など衣食住において広く主婦権を認められていた。

《近代》明治民法の家族制度は、「家」「戸主権」「家督相続」において、江戸時代の武家の家族制度を伝統的な制度として継承する内容になっている。すなわち、親族を「家」という枠の中に入れ、その中心に家長をおいて家族の統制をはかり、それを「戸主権」として確立した。家長の地位の継承は「家督相続」として、全財産を長男1人が相続した。家では戸主、夫婦では夫、家族では父と長男が重んじられた。例えば家族の婚姻には戸主の同意が必要であり、家族の居所は戸主が定めた。

 全国統一の法典とした成立した明治民法により、江戸時代の武家社会だけでなく、家制度は国民全体の社会制度として確立した。平塚らいてうはこうした家族制度に異議を唱え、女性解放運動を起こした先駆者の一人である。平塚は、雑誌『青鞜』で「元始女性は太陽であった」と述べ、女性の解放をめざす運動を展開した。

《現代》戦後の日本国憲法は、第14条の「法の下の平等」で性別による差別を禁じている。また、第24条の「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」で「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有する」「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と定めた。これにより、明治民法は改正され、「家」「戸主権」「家督相続」は廃止された。

 しかし、「家」は法制度としては廃止されたが社会的には残っており、選択的夫婦別姓問題など多くの課題が生じている。女性には「ガラスの天井」(女性の社会進出には見えない壁がある)があるなど両性の本質的平等に関して克服をしなければならない多くの課題がある。二ノ丸様の「薄幸」は過去のことではなく今日的問題でもあると管理者は考える。

2022.10.19 

 

「杉家屋敷跡」石碑(二ノ丸様・杉小次郎元宣(すぎ・こじろう・もとのぶ)夫妻屋敷跡・二ノ丸様略取誘拐地)2022.10.12管理者撮影2画像
「杉家屋敷跡」石碑(二ノ丸様・杉小次郎元宣(すぎ・こじろう・もとのぶ)夫妻屋敷跡・二ノ丸様略取誘拐地)2022.10.12管理者撮影2画像
「杉家屋敷跡」石碑(徳山動物園南園第2駐車場)。二の丸様は輝元に略取誘拐され、ここから二ノ丸様の流浪の旅が始まりました。
「杉家屋敷跡」石碑(徳山動物園南園第2駐車場)。二の丸様は輝元に略取誘拐され、ここから二ノ丸様の流浪の旅が始まりました。

二ノ丸様墓所(山口市香山公園毛利家墓所裏)。香山公園の毛利家墓所の西側(向って左側)の階段を昇っていくと二ノ丸様の墓があります。1604年に病死したときは山口市古熊の周慶寺(現善生寺)に墓所がありましたが、大正7年(1918年)に現在地に移座されました。二ノ丸様の墓所は萩藩主墓所の配置図に記載がなく、場所を探すのに苦労した。配置の表示板の設置が必要。死後も差別されているのだろうか。2022.10.14管理者撮影2画像。
二ノ丸様墓所(山口市香山公園毛利家墓所裏)。香山公園の毛利家墓所の西側(向って左側)の階段を昇っていくと二ノ丸様の墓があります。1604年に病死したときは山口市古熊の周慶寺(現善生寺)に墓所がありましたが、大正7年(1918年)に現在地に移座されました。二ノ丸様の墓所は萩藩主墓所の配置図に記載がなく、場所を探すのに苦労した。配置の表示板の設置が必要。死後も差別されているのだろうか。2022.10.14管理者撮影2画像。
二ノ丸様墓所の説明板。(画像をクリックすると拡大します。)二ノ丸様の長い旅が終わりました。
二ノ丸様墓所の説明板。(画像をクリックすると拡大します。)二ノ丸様の長い旅が終わりました。


《参考》近世《江戸時代》の山口県内の主要街道(かいどう)

「近世防長の主要街道」(山口県立山口博物館)
「近世防長の主要街道」(山口県立山口博物館)

 山口県立山口博物館が作成した地図を転写しました。

 

 関ケ原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元の領国は、120万5千石から防長2カ国36万9400石の約3.3分の1に減封されました(石高は支藩の石高を含みます)。毛利氏は、萩浦にあつた吉見氏の出城の指月(しづき)城を再構築し、阿武川河口の三角州の湿地帯を埋め立てて城下町を作りました。毛利氏は、家臣の禄高は減らしたものの、120万石の時の多数の家臣を抱えており、築城などの藩内の整備も必要で、財政はひっ迫していました。このため、防長2カ国の領民は重税に苦しめられ、他国に比べ貧しい生活を強いられました。

 

 萩藩の交通路は萩の唐樋札場(からひふだば)を起点として一里塚が整備されました。藩主の参勤交代路である萩往還は、萩城下から明木(あきらぎ)・佐々並(ささなみ。萩市)、山口(山口市)を経て三田尻御茶屋(みたじりおちゃや。防府市)までの約53㎞の行程で、日本海側の萩城下と瀬戸内海側を結ぶ重要な交通路でした。

 参勤交代の行程は、主に旧暦3月上旬に萩を出発し、萩から伏見(京都府)までが約2週間、伏見からは東海道を中心に陸路2週間で、4月上旬に江戸に着くまで約1カ月かかりました。年によって違いはありますが、当初は三田尻から大坂までは瀬戸内海通行しました。海路で大阪まで行かず、途中の室津(むろつ。たつの市)・坂越(さこし。赤穂市)まで海路で行き、そこから中国路(ちゅうごくじ。江戸時代の山陽道の別名)で大坂に向う場合もありました。続いて大坂から伏見に行きます。大阪から伏見までは淀川・宇治川を通行し、伏見から江戸へは陸路をとるのが基本でした。しかし、享保10年(1725)2月、天長丸遭難事件(死者・行方不明19名)が発生し、以後は三田尻から主に陸路の中国路を通行して伏見に向いました。海路は危険な面があるだけでなく、天候に左右されて日程が不安定であり、陸路は経費の節約もできました。

 

 山陽道は京都から赤間関(あかまがせき。下関市)までが本州で、その後、関門海峡を渡って九州の太宰府に至る太宰府路に繋がる古代・中世の最も重要な幹線道路です(江戸時代は五街道が重要で、山陽道は脇街道となりました)。県内は、小瀬(岩国市)から赤間ヶ関まで142㎞で、ほぼ現在の国道2号線に沿っています。

 前図「二ノ丸様と交通路」のレイア「二ノ丸様の推定移動経路と戦国時代の関連交通路」のうち「二ノ丸様略取誘拐推定経路4(高嶺城~新庄、郡山城)」は灰色のラインで示していますが、このなかで、嘉川(山口市)から高森(岩国市)までは山陽道です。 

 

 萩から赤間関へ至る赤間関(あかまがせき)街道は「中道筋(なかみちすじ)」「北道筋」「北浦道筋」の3ルートがありました。「中道筋」(約75㎞)は、萩城下から明木・秋吉(美祢市秋芳町)を経て吉田(下関市)で山陽道と合流します。「北道筋」(約80㎞)は、萩城下から正明市(しょうみょういち)・俵山(たわらやま)(長門市)を経て、小月(おづき。下関市)で山陽道と合流します。「北浦道筋」(約96㎞)は、萩城下から日本海側を、正明市、粟野(あわの。下関市豊北町)、川棚(下関市豊浦町)を経て赤間関に至る街道です。

 赤間関街道中道筋は、「Ⅲ―2「地図で見る幕末の山口県と宇部地域」」のページの「3攘夷から討幕」の項目の地図「地図で見る幕末の長州藩Ⅱ 尊王攘夷から討幕へ」のレイア「大田・絵堂の戦い・内訌戦関連地」にある赤線のラインです。

 

 石州(せきしゅう)街道は石州(島根県)に至る街道で、津市(山口市小郡)から徳佐野坂峠(山口市)をメインルート(55㎞。現在の国道9号線沿い)とし、萩城下の唐樋札場から日本海岸沿いを通り仏坂(萩市)に至る「仏坂道」(51㎞)、唐樋札場から弥富(やどみ。萩市)を経て土床(つちとこ。萩市小川)までの「土床道」(45㎞)、唐樋札場から吉部(きべ。萩市)を経て嘉年下井戸白坂峠(山口市)に至る「白坂道」(約38㎞。津和野への最短距離)など複数のルートがありました。

  

 肥中(ひじゅう)街道は、中世、大内氏拠点の山口(山口市)と豊浦郡神田の肥中(下関市)を結んだ街道です。

 山口からは吉敷大垰(よしきおおたお)を越えて、綾木(あやぎ。美祢市)、岩永(美祢市)、大嶺(美祢市)、西市・殿居(とのい。下関市)、田耕(たすき)・滝部(たきべ。下関市)などを通って肥中へ向かう約62キロの行程です。肥中港は当時、明や朝鮮との大内氏の重要な貿易港で、博多への船も出ていました。

 肥中街道は、前図「二ノ丸様と交通路」のレイア「二ノ丸様関連地」の青のラインです。

 

 山代(やましろ)街道は、萩城下(萩市)と山代地方(岩国市北部)を結ぶ街道です。萩城下からは福井(萩市)、地福(じふく。山口市)、柚木(ゆのき。山口市)、鹿野(かの)・金峰(みたけ)・須万(すま。周南市)、広瀬(岩国市)、本郷(岩国市)を経て、安芸国との国境にある亀尾川(きびがわ。岩国市)へ向かう約100㎞の行程です。

 山代街道は、前図「二ノ丸様略取誘拐推定経路と戦国時代の関連交通路」のレイア「近世の交通路」の黒のラインです。

 

 岩国往来は、今津札場(岩国市)から宇佐郷中(岩国市錦町)へと至る約41㎞の行程です。

 山代地方と岩国を結ぶ道で、萩藩主の御国廻りにも利用されました。広義の石州街道の一つとして捉えられることもあります。

2022.12.13 

 


〇厚東川ダム建設による小野村平地部の水没(小野湖)

 県営厚東川ダムは、山口県が総力戦体制下の昭和15年(1940)に起工し、戦時中の資材枯渇で一時中断後、戦後の昭和25年3月に完成させた。治水、農業用水、利水(上水道、宇部・小野田地域工業用水道)、発電(宇部興産)を行う多目的ダム。

 ダム建設で、民家169戸、水田・畑909反、山林155反、その他(小学校、分校、郵便局、駐在所、農協、寺社、医院など)の165ヘクタールが水没した。「水源地域対策特別措置法」(「水特法」・1973年)以前の戦時の買上げで補償が十分でなかった。湖畔に集団移転したものの、小野村の中心部を形成していた交通の便の良い川沿いの平地が、南北約6㎞にわたり山のところまで水没し、その後の村の発展に打撃を与えた。

 個人水没物件のある字は、鍛冶屋河内、黒瀬、一ノ坂、臼木、櫟原、渡瀬、如意寺、川崎、両川、下小野、西下小野、上小野、花香、藤河内、その他である(『小野村六十五年史』)。

 2016年に、宇部市立小野中学校が閉鎖され、厚東川中学校に統合されるなど今後の活性化に課題がある。生活地域の水没という大きな犠牲を払って宇部地域の発展を支えた小野地区再建への支援が行政・市民に求められている。

水没地域の旧観・下小野中心部の画像。「斜めに走っている道路の線から下右半分が水没。役場や産業組合事務所、倉庫などもこのなかに含まれている。」『小野村六十五年史』)宇部市小野・藤本氏所蔵写真を管理者が転写(以下2画像)。
水没地域の旧観・下小野中心部の画像。「斜めに走っている道路の線から下右半分が水没。役場や産業組合事務所、倉庫などもこのなかに含まれている。」『小野村六十五年史』)宇部市小野・藤本氏所蔵写真を管理者が転写(以下2画像)。
水没した両川(りょうかわ)集落(『小野村六十五年史』に水没地域の旧観の写真が掲載されている)。秋吉台を流れる厚東川と美祢市美東町大田(おおだ)を流れる大田川が両川地区で合流し、厚東川となって瀬戸内海へ流れる。厚東川ダムは、他のダムと違い、海に近い位置に建設されているため、水没した家屋が多い。
水没した両川(りょうかわ)集落(『小野村六十五年史』に水没地域の旧観の写真が掲載されている)。秋吉台を流れる厚東川と美祢市美東町大田(おおだ)を流れる大田川が両川地区で合流し、厚東川となって瀬戸内海へ流れる。厚東川ダムは、他のダムと違い、海に近い位置に建設されているため、水没した家屋が多い。


③近世 厚東川周辺の開作

『宇部市史 通史篇』(昭和41年・旧宇部市史)406頁から作成された資料を管理者が撮影した画像。拡大可。

 

 江戸時代初期、現在の宇部の市街地は、上記のように居能(藤曲交差点付近・地図の右側中央付近)から海に繋がる入海になっていました。

入海の西側を干拓した「8 鵜ノ島開作」(鵜ノ島小学校周辺の地域)は17世紀末に造成されました。

 

 厚東川河口の江戸時代に干拓された開作を除外してみると、江戸時代初頭、厚東川河口の海岸線は、現在の山陽本線宇部駅のある「際波」(きわなみ・波打ち際の意であろう)のあたりであったことがわかります(前出『慶長国絵図控図・長門国』参照)。

厚東川の両岸は、上図のように18~19世紀の開作により造成され、新しい村も生まれました。妻崎新開作は、米麦の増産とともに、石炭の採掘を目的として干拓され、竹ノ小島は陸続きとなりました。

 明治22年(1889)の市町村制で、厚東川下流の右岸(西岸)は厚南村(際波村・東須恵村など5村合併。下の表を参照)となり、左岸(東岸)は、藤曲(ふじまがり)村と中山村が合併して藤山村(「藤」と「山」をとって命名)となりました。 

 

《参考》渡邊祐策本邸・「松巌園」

 島地区の中心に位置する沖ノ山炭鉱頭取渡邊祐策本邸を「松巌園(しょうがんえん)」とよびます。この名は「島」の松と巌(岩)を庭園に取り入れたことに由来します。

 渡辺翁記念館近くの宇部市島は現在は小高いところにある宇部市街地の中心に位置しますが、かつては島もしくは半島であり、海岸近くの岩や松もある集落でした。

  米騒動時には松巌園も形式的破壊を受けました(渡邊祐策は上町(うえまち)の別邸「松濤園」(しょうとうえん・上町の松濤神社横)に居住していました)。

渡邊邸・松巌園(宇部市島)。『宇部・美祢・小野田 大人の社会派ツアー 「渡邊祐策と沖ノ山炭鉱」』に参加して、渡邊祐策の生誕150年にあたる2014年6月16日に、翁のひ孫にあたる渡邊裕志様の説明を聞きながら見学しました。管理者撮影2画像。拡大可。
渡邊邸・松巌園(宇部市島)。『宇部・美祢・小野田 大人の社会派ツアー 「渡邊祐策と沖ノ山炭鉱」』に参加して、渡邊祐策の生誕150年にあたる2014年6月16日に、翁のひ孫にあたる渡邊裕志様の説明を聞きながら見学しました。管理者撮影2画像。拡大可。
松巌園の松と巌(岩)。「島」の海岸の自然の岩のくぼみを利用して池が作られており、池の中央の石は自然の岩の一部という説明がありました。
松巌園の松と巌(岩)。「島」の海岸の自然の岩のくぼみを利用して池が作られており、池の中央の石は自然の岩の一部という説明がありました。

3 原始・古代から近世にかけての宇部沿岸地域の風景のまとめ

《原始・古代》

紀元前1世紀~紀元後1世紀 江戸時代、沖ノ山で、前漢時代(紀元前206年~紀元後8年)の銅銭の入った朝鮮半島の甕(かめ)の形を模した甕(弥生時代中期末)が発見された。沖ノ山は、弥生海退により、島か砂州で、青銅器の原料とみられる銅銭が甕に入れられ、何らかの理由で埋められたとみられる。

 

4世紀後半 厚東川河口の藤山にある松崎古墳から仿製(ぼうせい・日本で鋳造した中国の鏡の模造品)の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が出土している。ヤマト王権が、瀬戸内海の要衝であった藤山地域を支配する豪族との関係を深めていたことをうかがわせる。

 

7世紀後半 東岐波の日の山に烽(とぶひ)が置かれる。烽は、白村江の戦いに敗れた後に設置された防衛施設で、唐・新羅軍の来襲に備え、煙(昼)や火(夜)による情報伝達を行った施設(烽で伝えられない場合は「脚力」で次に伝える<『令義解』「軍防令」>)がつくられた。

 

(901年(延喜元)) 道真着岸伝説・・梶返の辻地蔵岬に大宰府に流される途上の道真の船が着岸したという伝説である。史実は不明。平安時代前期は海水面が上昇し、沖ノ山が水没、または島であった可能性があり、小型の船が瀬戸内海から梶返に着岸していたとみられる。

 

《中世》

14世紀・南北朝時代  真締川河畔に松江山普済寺(ずんごうざんふさいじ)があり、奈良時代に唐から渡来した僧により創建されたといわれる。南北朝期に「龍心庭」(現存する山口県最古の庭園)が作庭される。現存する干潟様の庭園は、毛越寺庭園(平泉)と「龍心庭」のみで貴重である。江戸時代に、宇部領主の福原広俊が松江山宗麟寺(臨済宗)として再興した。

 

室町時代ころ 真締川上流地域にある下請川南遺跡から半製品で出土する石鍋が、県内だけでなく、瀬戸内の流通網を通して草戸千軒町遺跡(広島県福山市)までもたらされていた。

 

《近世》

1605年(慶長10) 『慶長国絵図控図・長門国』では、沖ノ山の砂州内は入海になっている。

 

1689~93年(元禄2~6) 鵜ノ島開作造成・・真締川は樋ノ口付近から西に向かい、鵜ノ島開作の堤防の南側を通り、沖ノ山砂州を開削した助田の栄川から海に流したが、真締川流域の湿田問題は解決できなかった。

 

1797~98年(寛政9~10) 新川疎水・・真締川を瀬戸内海に直流させるため、樋ノ口から川口まで沖ノ山砂丘を約1㎞開削して付け替え、現在の流路とした。この結果、流域の湿田や旧河川一帯を「美田」に変えることができた。 

 


《テーマ》「阿武瀬一字一石経塚(あぶせいちじいっせききょうづか)」―宇部市内の一字一石経塚(近世)と調査報告書の刊行―

《宇部市内の一字一石経塚》(発掘作業の行われた経塚)

〇厚東棚井の「東隆寺一字一石経塚」は発掘作業、整理等作業、調査報告書の刊行まで完結しています。

〇小野阿武瀬の「阿武瀬一字一石経塚」は発掘作業(下記新聞報道)が行われていますが、調査報告書の作成はされていません。経塚は地域の信仰の対象になる文化財ですから、発掘調査後はすみやかな埋め戻しが求められます。

 

《山口県内の一字一石経塚》

〇長門市油谷町の「山光寺(さんこうじ)経塚」(地上部に基壇と標石。享保17年(1732)の飢饉による980余名の村人の死者の供養が目的。円形土壙に経石826個)。

〇同前の「浅井経塚」(地上部に基壇・経塔。天保10年(1839)、諸仏、諸大菩薩の供養と先祖代々の諸精霊の成仏を祈願して造営。地下の石組石室に経石7万1747個)。

〇山口市小郡町下郷の「小郡開作(おごおりかいさく)経塚」(地上部に「寛文2年(1662)・・」と「奉納大乗妙典塚」の銘のある石塔。古開作の南端(山口県総合交通センター前)に開作地(干拓地)の安全を祈願して作られた経塚。出土経石8258個)。

〇山陽小野田市郡の洞玄寺境内の「洞玄寺(とうげんじ)石字経王塔」(地上部に5段の方形石積基壇の上部に2層の石塔を載せた経塚。安永9年(1780)、厚狭毛利家当主の7回忌の供養のため建立。段基壇内部の空洞内には1石に1字の経文字を記した川原石が埋納されている。「法華経一字一石塔」)

など。

2022.11.16

 

⓵東隆寺一字一石経塚(とうりゅうじいちじいっせききょうづか)

 宇部市厚東棚井にある東隆寺から発掘された経塚です。

調査報告書:『宇部市文化財資料 第9集 東隆寺一字一石経塚(伝南嶺和尚墓)』1988(昭和63年) 宇部市教育委員会

《要旨》

・東隆寺は厚東武実の暦應2年(1339)に建立され南嶺子越を開山とした。足利尊氏・直義により長門国の安国寺に指定された禅宗の重要な寺院である。

・伝えられている南嶺和尚の墓ではなく一字一石経塚である。経石総数は67,975個で墨書の残るものは8,058個、文字の判読できたものは2,993個である。

・法華三部経を主体とした経文を川原石にに写して大量の経石を一括埋葬経塚は、中世紀末から近世期にかけて盛行する。

・東隆寺は17世紀初頭のころ無住となり廃寺の危機を迎え、元禄元年(1688)雲庵宗超の願い出で再興した。経塚の造営はこの時点、元禄年間(17世紀末~18世紀初頭)の造営となる。

・基壇上部の蔵骨器は経塚基壇築造当初の可能性に対し否定的である。時期決定とはなり難い。甕は肥前産近世期甕で17世紀初頭を除く後半までに比定できる。このことから、経塚造営の時期を当寺中興の時期とみなすなら、ほぼ一致する。

・再興以後の住僧の墓に17世紀雲庵の墓石はなく、第17世雲庵宗超を経塚に納めた蓋然性が高い。しかし、骨片の鑑定で熟年(60才未満)の男性と推定されるため、雲庵の享年70才台半ばと合致しない。

・以上のことから、東隆寺経塚の造営をめぐる詳細な問題点はなお後日を期す点が残った。

2022.1027

 

②阿武瀬一字一石経塚

宇部市小野地区阿武瀬の山中から発掘された経塚です。

 1999年の発掘調査から23年が経過していますが調査報告書の刊行は現在ありません。

2022.11.15

 

「田布施の遺跡発掘 報告書刊行に遅れ 6年経過しても未執筆」(『朝日新聞』2022.10.7)。宇部市小野「阿武瀬一字一石経塚」は発掘作業後20年以上経過しているが、調査報告書は未刊行。

 「田布施町が実施した文化財発掘で、「おおむね3年以内」とされている調査報告書の刊行が大幅に遅れることがわかった。」「調査報告書については、文化庁が04年、「発掘作業の終了後、おおむね3年以内」に刊行するという指針を自治体に通知。記憶が鮮明なうちに作成し、調査の成果を迅速に公開することを求めている。」「文化庁文化財第二課は「工事に伴う全国の発掘調査件数は1996年がピークで、報告書の刊行遅れは減っていると認識している。発掘調査は報告書刊行をもって完了するものであり、未刊行は問題」と指摘する。」(以上『朝日新聞』2022.10.7「やまぐち」面)

 「阿武瀬一字一石経塚」は宇部市小野区阿武瀬の山中にある小野郵便局長藤本雍徳さんの私有地で藤本さんが発見しました。1999年(平成11年)5月21日から宇部市教育委員会が緊急発掘し、同年6月5日に発掘事業を一般公開し、現地説明会が行われています。(以下の『ウベニチ』『宇部時報』の画像参照)

 管理者が2022年9月に「学びの森くすのき」に問い合わせたところ、経石は旧宇部市立図書館に保管されており、一部が「学びの森くすのき」の収蔵庫に移管されている。調査報告書は作成されておらず、当時の記録が残っているので、今後この記録の「まとめ」を公開したいとのことであった。発掘当時、「市教委社会教育課は「小野地区の近世の歴史を知るうえで貴重な史料になる」(『ウベニチ』1999.5.13)」としている。「貴重な」資料として、発掘の成果を宇部市民や生徒・児童、学術関係者らに公開・還元するために、調査報告書を記憶の新しいうちに作成する必要があったと考える。

 一字一石経塚は文化財であるとともに、宗教遺跡であり地域住民の信仰の対象である。経石発見者は数万個の経石を現地へ埋め戻して供養することを要望している。すみやかな市当局の対応が必要と考える。

 阿武瀬一字一石経塚の報告書が作成されていないことには理由があるのだろうが、調査報告書の作成は重要な責務であると考える。朝日新聞が指摘した田布施町だけでなく、身近なところで報告書の刊行遅延が生じているのではなかろうか。発掘調査は発掘調査作業、整理等作業、調査報告書の作成で完結する。埋蔵文化財は国民共有の貴重な歴史的財産であり、個性豊かな地域の歴史・文化環境を形作る重要な資産でもある。山口県、各市町は発掘調査の実態を把握し、予算措置を行って発掘作業後はすみやかに調査報告書の刊行まで実施する責務があると考える。

2022.11.15更新 

 

「阿武瀬一字一石経塚」発見(『ウベニチ』1999年(平成11年)5月13日報道)
「阿武瀬一字一石経塚」発見(『ウベニチ』1999年(平成11年)5月13日報道)
「阿武瀬一字一石経塚」一般公開1999年(H11)6月5日(『宇部時報』1999.6.7報道)
「阿武瀬一字一石経塚」一般公開1999年(H11)6月5日(『宇部時報』1999.6.7報道)

『宇部時報』と『ウベニチ』は2004年(H16)に合併し、現在の『宇部日報』となった。

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2022.11.16更新