柳井町

管理者がグーグルマイマップで作成。黄色のピンは集合場所。

展開

柳井町と小串村(現下関市)で県内はじめての米商襲撃

新聞報道

≪馬關毎日新聞大正7年8月15日≫「▲遂に縣下に波及 ◆柳井町八幡社に集合

「縣下玖珂郡柳井町にては十二日深更何者か「米價の暴騰につき町民大會を開會す八幡社境内に十三日夜御来会あれ」との貼出しを為せるものありたり然るに暫くして右の貼紙は何者か之を破棄したるが又もや「心ある者は十三日午後十時を期し八幡社境内に参集せよ」との▲掲示を為すものありしが十三日夜九時全より勃々参集し九時には其數五百餘名に上りて或る壮漢は同社拝殿に突つ立ちて「米價の暴騰は奸商の買占めと現内閣が出兵を断行したるが為にあり」とて一口の悲憤談を試みしかば▲群集は熱狂し、遣るべし〱(〱は横向きで繰り返し)と叫びつゝ新市に向つて出發し十時頃同六丁目に達したる頃警察官之が鎮撫に努めんとせしに群集の内に「警官は賄賂を受て米穀商援助するものなり」と大喝したるものあり警官は▲首魁と認むる三名を引致せんとせしかば群集は之を見て大いに憤り直ちに之を取返して進行し新市の〇〇〇〇及米商〇〇の両家を焼討すべしと絶叫するに至りしかば警官は必死となりて之か鎮撫に努めしため▲大事に至らざりしが〇〇某の店先に至るや群集は口々に町民の膏血を絞る奸商を破壊すべしと叫びつゝ同家に闖入して硝子窓を破れり此時〇〇某なるもの何時しか積み重ねたる箱の上に▲仁王立ちとなり「徒らにワイ〱(同前「)騒ぎをなすよりは委員を選定して警察署に交渉を為し白米一升貮拾銭以下に賣捌かしむべければ鎮静に帰せられ度し」と述べ直ちに委員として〇〇、〇〇、〇〇〇、〇〇、〇〇、〇〇、〇〇、及び〇〇の八名を▲委員に挙げたり委員は十一時警察署に至りたれば茲に全く鎮静に帰したり警察署にては米穀商の代表者と認むべきものを同署に招きて長防白米一升二十銭以下販賣に就き交渉中なるが米商人等は玄米の時價に比し頗る▲割安なりとて大いに痛心し居れり今回の暴擧は野次馬連の群集心理に出でたるものゝ如くにして富豪より金員を支出せしめて安賣開始を為さしめんとするにありと推せらる現に同地米商連は柳井座小学校及び某所の三ヶ所にて白米一升三十銭にて販賣を為し居れるなり(十四日午前柳井電話)」。

 

≪防長新聞大正7年8月15日≫「●柳井の米騒動 八百名米商を襲ふ」。要約、「」は引用。 

柳井町では十二日深更に各電柱に「米価暴騰に付き町民大会を開催す同志は来れ」及び「心ある者は十三日午後十時を期し八幡宮に参集すべし」との貼札をした者があった。警察が警戒していたところ八時ころから境内に三々五々来襲し十時半ころには八百余名に及び殺気が漲った。壮漢が拝殿に上り、米価暴騰は買占め商人のためなりと絶叫し米屋を叩き潰せ、焼き打てよと叫ぶ者があった。群集は一体となって警官の制止をきかず、新市6丁目川本松助、村源右衛門等の米穀商に押し寄せ、膏血を啜る姦商奴などわめき罵り、山田米穀店頭のガラス箱その他を破壊して米を廉価に売るべしと連呼し新市3丁目まで押し寄せた。巡査の制止に、巡査と米商は結託して米の買い占めを行うと叫び、二三の「野次大将」は役場に行けと叫んで群集に油を掛けて勢いを得たため、巡査は首魁者と目される者を二三人引致したが、群集はついにこれらの首魁者を取り戻した。壮漢が「日本米一升廿銭になるべく運動するに依り鎮静せよ」と絶叫して漸く静まった。委員八名が柳井署に出頭し白米一升廿銭にすること、一定の時刻、一定の場所を定めず各小売商全部に販売させることを願い、十七日正午までに米商の返答を聞くことを約して引き別れた。

 

≪關門日日新聞大正7年8月15日≫抜粋。「生活難の壓迫より免れんとする細民の米騒動益熾烈 遂に本縣下にも蜂起す 悲むべき聖代の不祥事」(中略)「▲柳井町に暴動起る 八幡宮境内に勢揃したる群集 鯨波の聲を揚げて米商を襲撃 警官の手より引致者を奪還し警察署樓上にて二十銭廉売を迫る

「其數六七百名」「其數八百名以上に達したる」

川本、村源の米穀商を襲い、「白米一升廿銭に廉賣することを承諾せしめ、それより新市通りを進みて同町山田米店を襲ひたるが其處には柳井警察署の警官数名先廻りして警戒するあり頻に制止せんとすれど群集は口々に「警察が賄賂を取り米商と結託して米の買占をする」など◇熱罵を浴びかけ「やッつけろ」の聲の下より矢庭に瓦礫を飛ばして同店の硝子障子を破壊し始めたるより警察署長は大聲に要求あれば代表者を選びて警察に來れと叫び部下の巡査に命じ首謀者らしき者三名を引致せしめんとするや群集は大いに激昂しそれ救へとばかり警察隊に打つてかゝり遂に暴力を以て右三名を奪還したる」(柳井電話)。

 

≪防長新聞大正7年8月20日≫「●縣内の騒動 △柳井町

柳井町は十三四両日夜多数の町民集合ありて米穀商に対し廉売を迫り町当局及び警察署長の居中調停にて兎も角も解散するに至り目下は全く静穏なるも一時は警察本部山口署其他より巡査の応援派遣あり十七日夜まで警戒せり

 

『山口県警察史』の記載

「山口県で最初に火の手を上げたのは柳井町と小串村(豊浦町)であった。柳井町では八月十二日の深更、町内の主要街路の電柱などに次のようなビラが貼られ、町民大会への参加を呼びかけた。

 

 目下ノ米価暴騰ニ対シ、町民大会ヲ開催セントス。同志ノ輩ハ来ル十三日午後八時、代田八幡宮ニ参集アリタシ。

                              主催者

 各位

 

 柳井警察署長厚半平警部は署員一八名と消防組を召集し、ビラを撤去して町内の警戒に当たっていたところ、十三日の午後八時ごろから代田八幡宮に集まった群衆は約八〇〇名に及び、十時ごろ一人の壮漢が立ち上がってアジ演説を行い、それを合図に「米屋をたたきつぶせ」「焼き打ちせよ」と口々に叫びながら新町方面へ向かった。

 (中略)ところが翌十四日の夜、約三〇〇名の町民が柳井小学校に集まり、新町二丁目の山田米穀店を襲撃して店舗などを破壊した。急報によって駆け付けた柳井署員は首謀者一三名(騒擾罪九、治安警察法違反四)を検挙し、午後十一時ごろこれを鎮圧した。」(『山口県警察史』上巻694~695頁。太字は管理者が付けた。)

 

13日夜と14日夜の米騒動

13日夜に関する『米騒動の研究』の誤り。

13日夜の米騒動に関し、『米騒動の研究』第4巻99頁下段16行目(註3)では『防長新聞』8月15日の記事を典拠に「新町3丁目」と記載している。しかし、『防長新聞』8月15日の記事は「新市六丁目」・「新市三丁目」の記載はあるが「新町三丁目」の記載はない。

「新町」は代田八幡宮から離れた場所にあり、代田八幡宮を出た群衆が襲ったのは、新市の米商であり、『米騒動の研究』の記載は誤まっている。

 

13日、14日に関する『山口県警察史』の記載

同様に、『山口県警察史』の13日夜に関する記載で「新町方面」とあるのは「新市方面」が正しいと考える。

8月14日の夜に政府が米騒動に関する新聞記事を禁止した(18日まで)。したがって8月15日付以降の米騒動の報道は内務省が発表した内容しか記事にできなくなった(19日以降は記事化できた)。従って、県内で米騒動が多発した14日~16日の米騒動の内容は、8月20日以降の新聞記事や裁判の予審、公判の記事、警察史料などにより知ることができるが、内容の不明な米騒動も多い。起訴のある柳井町等の米騒動は、山口地方検察庁が保管する裁判資料の閲覧により知ることができるので、歴史的事実の究明には、担当検察官の閲覧許可が必要である。ただ、閲覧の許可は簡単ではない。

14日夜の柳井の米騒動に関する新聞記事はない。したがって『山口県警察史』の記載は貴重である。14日夜の集合場所は柳井小学校となっているので、14日の襲撃場所が小学校に近い「新町二丁目の山田米穀店」という記載に矛盾はない。ただ、「新町二丁目の山田米穀店」が前日の新市の「山田米穀店」と同一の店名になっている。別の米穀店がたまたま同じ「山田米穀店」という店であったのか、あるいは記載内容に誤りがあるのかは明らかにできない。柳井小学校から新町は近いが、新市とはかなり距離がある。

前記の『山口県警察史』の記載によれば、検挙された首謀者13名は14日夜の米騒動に関わっているとみられる。

裁判を報じた新聞記事(『関門日日新聞』大正7年11月15日(下記))によれば、8月14日の午後9時ころから「新市の山田米店を襲ひ」と記載されており、「新町二丁目の山田米穀店」と記載する『山口県警察史』との連関は明確にできない。

 

知事報告

アジア歴史資料センターB08090136700『大正七年七月ニ於ケル米騒擾ニ関スル件』≪山口県知事電報≫8月13日・14日。茶色の輪郭は管理者が付けた。(画像をクリックすると拡大します。)


8月13日午後5時15分の山口県知事電報では、「不穏の状なし」と報告され、貼紙(12日深更)があったものの、(8月12日夜の)福川町の集会も無事退散し、まだ街頭の騒動は発生していなかった。

ところが8月14日午後5時20分の山口県知事電報では、8月13日夜に柳井町と小串村で騒動の勃発を推察させる報告がされ、山口県内にも米騒動が伝播したことを示している。

司法

騒擾事件調査票

国立公文書館アジア歴史資料センター「米価問題に付騒擾の件2止(14)」(レファレンスコードc08021485500)の「騒擾事件調査票」55~82ページ(番号1527~1554)。次の表は、この史料の中の「騒擾犯人身位別表」(70ページ)です。

裁判

『關門日日新聞』大正7年11月15日。要約。

起訴4名(騒擾罪指揮2名。騒擾罪助勢2名)。

「八月十四日午後九時過ぎより勃発」。「新市の山田米店を襲ひ警察官が三回まで制止するも頑として之に應せず騒擾を極めたりとのことなるが被告等は同様事實を否認し不得要領の陳述を為すより判事は職権を以て證人として厚柳井警察署長を喚問することゝなり閉廷を告げたり」。

 

『馬關毎日新聞』大正7年11月17日。「●米暴動公判」。要約。

13日午後1時、岩国裁判所で開廷。岩国町6名、柳井米暴動4名の10名の公判。

 

『馬關毎日新聞』大正7年12月5日。「●柳井米暴動の公判 檢事懲役を求刑」。要約。

8月14日夜柳井町米暴動の首魁。3日午前10時半より岩國区裁判所で開廷。

懲役1年6ケ月求刑2名。懲役8月求刑1名。懲役6月求刑1名。

判決言渡しは10日。

 

『馬關毎日新聞』大正7年12月12日。「●柳井米暴動事件の判決 首魁は懲役1年」。要約。

20代1名。30代1名。40代1名。50代1名。

昨10日午後2時より。岩国区裁判所。懲役1年2名(求刑1年6月)。罰金50円1名(求刑懲役8月)。罰金30円(求刑懲役6月)。

 

 『防長新聞』大正8年1月8日。「●山口の初公判」。要約。

大正7年8月の柳井の米騒動は12月10日岩国區裁判所で懲役1年2名、罰金50円1名、罰金30円1名の判決。このうち懲役1年の2名が控訴せる事件は明9日山口地方裁判所で開廷。

 

『馬關毎日新聞』大正8年2月20日。「●柳井騒擾の言渡は二十二日」。要約。

柳井町騒擾事件被告2名は前記岩国区裁判所で懲役1年を科せられた2名。

1名はこの記事では「林〇〇〇〇」となっているが、『馬關毎日新聞』の前記の2記事並びに以下の『防長新聞』では「秋〇〇〇〇」と記載されており、「林〇」は「秋〇」の誤記である。

18日午後2時より山口地方裁判所で公判開廷。弁護士は無罪又は執行猶予を望み、22日言い渡し。 

 

関連地の風景

集合場所となった代田(よた)八幡宮境内(管理者撮影以下3画像)
集合場所となった代田(よた)八幡宮境内(管理者撮影以下3画像)
米屋が襲撃された新市の現在の通り
米屋が襲撃された新市の現在の通り
柳井警察署。昭和41年に柳井駅前より現在地(南町)に移転。
柳井警察署。昭和41年に柳井駅前より現在地(南町)に移転。